分からないことを残しておく

本題ではないのですが、まずは前回取り上げた、「お腹のしこり」と「指」と「唇」と「皮膚」がどう関係するのか臓腑経絡説を用いて説明してみたいと思います。 


お腹にある天枢穴はまず、陽明大腸経の募穴です。
陽明大腸経は手の人差し指から始まり、鼻・の辺りへ流れています。

親指は太陰経の領域ですが、陽明大腸経とは表裏関係にあります。

肺は五主でいえば「皮毛」ですから、皮膚と関連が深い。 

臓腑経絡説によれば、肺臓の働きが衰え、表裏関係にある大腸経上(人差し指と唇)の皮膚に異常が多く現れたとでもいえるかもしれません。


ここに臓腑経絡説のすばらしさを感じる人もいれば、よくわからんという人もいると思います。わたしは魅力を感じたほうです。そこに古方漢方を交えて研究し、今があります。

それと矛盾するようですが、実学を重んじるという古方漢方の性格もあり、わたしはこういう事をあまり考えないようにも努めてきました。

それは尊敬する先生方の「理屈も一生懸命勉強しなさい。ただし、それを忘れていく事も大事」という指導方針でもありました。

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毎日の臨牀では、いちいち考えなくても、そこになにか意味のある繋がりを感じ取ってしまうことはありますし、ヒントになることはあります。ただあくまでも感じ取ることが先なので、理屈を先にすることはありません。

どこにどういう針をすべきかは、わたしの少ない脳みそから絞り出されるものではなく、明鏡止水、虚心坦懐であれば”あちらから”やってくるものだと教わりました。患者さんの身体が無言で教えてくれるものがあり、それを正しく受信するためには、術者はどこまでもエゴを取り除いておく必要があるというわけです。


そういう態度で臨牀に臨んでいると、予想外の答えがやってくることがあります。まったく原理原則や法則からも外れる、とんでもない解決策を見出すことがあります。それは「西洋医学的にも、東洋医学的にも間違っている、または根拠がない」場合があります。自分でも困惑することがあります。「そこはないんじゃないか。違うんじゃないか」と。でも結果からみれば、どうやらその直観は正しいようです。一体なにを頼りとするかという話です。

わたしが志向する鍼は、現代の常識とはまったく相いれない部分があります。


理屈を先にしていたころは、教科書やマニュアルにないケースに遭遇するたびに困りました。というより、現実にはそんなことだらけです。いわゆる頭でっかちですが、鍼灸に限らないでしょう。どうしても醫學知識を増やし続けねばならない初期の頃は仕方がありません。お勤め鍼灸師時代はそんな感じで、どうしたらいい治療ができるのか日夜もがき、悩みながら治療をしていました。

悩むだけマシともいえますが、そういうものを頼りとするから悩むのだともいえます。まずは覚えて、そして忘れてゆくこと。どうしたって時間がかかります。


なのでその間は省略しますが、長いこと分析知を総動員して頭で理解しようと努めてきました。そうして私が出したこたえは「分からないことを残しておく」ことの大切さでした。私の場合は、です。理解しようとし続けることも尊いと思うからです。

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生命とは本来カオスです。生命発生のメカニズムとて解明しきれたとはいえません。

我々のいのちは一つ一つそれ自体が小宇宙であり、大いなる自然の一部です。西洋だろうが東洋だろうが人智をもっては計り知れない偉大なものがあります。それを科学者でもないのに人知で説明しうるとか分かる等と言うのは傲慢だとわたしは思うのですがいかがでしょうか。


わたしは人知(というか私の知力)を超えたものに対しては、無理に分かろうとしない態度でいます。まぁ、分からないのに分かるというのは変でしょう。分かるとは、物事を「分ける」ことです。分析知とはここから始まりますが、本来分け入ることのできない神の領域に分け入るならば、それなりの作法が要ります。本来分けられるはずのないものを分けているのだという認識と畏怖です。それを弁えずに医学知識だけが先行したのが現代医学です。生命とそれに挑む科学の歴史を知らずに、医学知識のつめ込みだけで人間がわかるようになるのか。疑問です。生命哲学も必要だと私は思います。そしてそこに創造性が働くからこそ、それはアート(技術)として輝くわけです。別に絵を描けというという訳ではありません。医者が医者として分業化されたのはそれほど昔のことではありません。本来の姿には戻れないとしても、なにか別のありようがあるのではないか。

鍼灸師にもまったく同じことが言えます。酷いありさまです。

書いていてだんだん溜め息が漏れてきました。

かなり脱線しました。もうすぐ終わります。

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生命のはたらきの一部を切り取りそれを醫學で説明できたとして、しかしそれはほんの一部です。説明しようのないものを無理に説明しようとしてはいけません。そうして現実を歪めてしまう事はよくあるからです。

理屈に合わない現象に遭遇した場合人はどうするのか。無視するか、解釈を捻じ曲げるかです。整合性を求めるがゆえに現実を捻じ曲げ、人を理論に当てはめてします。それを繰り返すと憶測が生まれ、積み重ねると迷信となり、悪い意味での魔術の世界に逆戻りです。西洋東洋は関係ありません。現代医学でも起こりますし、鍼灸師もやります。


それを起こさせないために、「分からないことを残しておく」という智慧があります。分からないまま保留にしておくのには、精神的なタフさと謙虚さが要ります。手軽な解決に身を委ね、「分かってしまう」方がはるかに簡単だからです。考え続けねばならないのです。それは分からないことを残しておく事と矛盾しません。一体の精神を別の側面から説明しただけです。

「天を知るを求めず」とは『荀子』の言で、「知らないことを残しておけ」と私は訳しました。覚め続けようとする者たちに必要な態度なのだと理解しています。いかがでしょうか。わたしは、孔子が「*怪力乱神を語らず」といった意味が改めて理解できた気がします。

*怪しげなこと、不確かなことは口にしない、ということ。


理論や概念、技術、経験はまるで「三輪車の補助輪」のようです。わたしたちを助ける有難い道具ですが、邪魔にもなります。二輪で不安定だからこそ、自由度が上がりますし、逆により安定することもあります。


その場で創造していくしかないからこそできることがあります。

長くなりましたが、わたしはそちらを好むという話でした。

この話で興味を持たれた方には、『荀子』天論篇をおすすめします。

探花逢源

福岡県福岡市 誠花堂院長のブログ