前回、「学生に切皮をしてもらう2022.11.20」からの続きです。
力まかせに鍼をしてはいけないのですが、そういう鍼の扱い方が一般的のようです。そういう自覚がある施術者自体が少数なので、こういうことは問題にされていません。
ちからまかせ、というのは入れようという意思が強すぎたり、相手の反応を感じないまま打つということです。一言で言えば「我」です。
それでは微細な感覚がつかみづらくなる上に、”共鳴”が起こりません。
いわゆる得気は相手の感受性があまり問題にされない傾向があり、共鳴現象と呼ぶには一方的すぎる感じがするのでわたしは分けています。
作為があるとちょうどいいところが見えづらくなる
この”共鳴”はとても大事です。
共鳴現象は鍼でも按摩でも起こせますが、「ちょうどいいところ」を見つける必要があります。それにはまず「場所」と「深さ」の問題があります。「周波数」の問題もありますがここでは割愛します。
ちょうどいい「場所」と「層」に到達するといい響きがおこります。この辺のことは医王会の増永静人先生も仰っておられますが、自他の境界線がなくなるようなところがあります。
下手な按摩は押されていることが分かります。上手い人の按摩は押されている感じがなく、ただ”入ってくる感じ”だけがあります。私の感覚ですが。故・伏見富士子先生の按摩がそうでした。有資格者が本当に修練を積むとこうなるんだなと知らされた思いです。時を遡っていろいろ質問したい気持ちです。
鍼でそれをやるのも同様に難しいです。
効かせよう、鍼を刺そう、入れていこうなどという意識が生じると、それはノイズとなって境界線を作り出してしまいます。
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実際のところ、学生時代は鍼を打つのが精いっぱいです。ちょうどいい深さなどわかりようがありません。というか、それを教えられる教師がいないので、そもそも教えようがありません。
そういうことをおざなりにした鍼灸治療が世間でメジャーになっています。世界的にもそういう流れにあるようです。それはそれで効果をあげているそうなので、なにも問題ないのかもしれませんが、本当にそれでいいのか疑問があります。
学生の鍼が絶妙だったのは無理がなく、作為がなかったからです。
しかし、進歩することでそれが消えてしまった。
上手く刺すためには、刺すことを忘れねばできません。
よく治すためにやるのに、治すことを忘れねばできません。
このパラドックスを超越すると、とても魅力的な世界があります。
鍼の奥深い世界はここから始まるのではとわたしは思っています。
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