『一日一花』という川瀬敏郎さんの素晴らしい写真集があります。
息が止まるほどに美しいとはまさにこの事。
枯れた草花をこんな形で見せてくれた人をわたしは他に知りません。
鍼灸師としては当然、技術や知識が大事なのですが、それらはプロなので有って当たり前です。それを前提とした上で、プロにとって大切なのは美意識なのだと私は思っています。
花と鍼とでは世界が異なりますが、私は川瀬さんの花から大いに触発されたところがありました。
この一日一花に出会って以来、私も一日一施に挑んでいます。
そう、挑んでいます。
臨床は戦いで、真剣勝負だからです。
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花を生ける人とは? と連想すると、着物を来て優雅で、ほのぼのと牧歌的なイメージが浮かんできます。私はそうでした。しかし川瀬さんを知り概念が一新しました。
お写真を拝見すると柔和な笑みを湛え、穏やかな人柄を感じとれます。しかし一方で、その佇まいには厳かなる静謐さも感じられます。
この方は求道者なのだと思いました。言葉の端々からもそれを感じることができます。
一日一花。それは真剣勝負であるはずです。
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氏のコメントで”たてまつる”と述べており、感じ入るものがありました。
じつは震災のあと、私は生れてはじめて花を手にすることができずにいたのですが、その笑顔にふれて、むしょうに花がいけたくなり、気づけば「一日一花」をはじめていました。生者死者にかかわらず、毎日だれかのために、この国の「たましひの記憶」である草木花をたてまつり、届けたいと願って。
盲人が盲人を導く世界にあっては誰もが迷子です。私たちはどこから来たってどこへ行くのか。知っているようで誰もしりません。そのような世界にあって私たちはなぜ鍼をしているのか。なにが私に鍼を打たせているのか。鍼を打っている私とは何者なのか。
より良い治療ができるようにと追求していると、必ずどこかで自分自身と向き合わねばならないところが出てきます。己を知らぬまま芸の深奥に到達することは、おそらくできないでしょう。
それは祈りの純度を上げる作業でもあり、私にとっての針はいつしか道業ともなりました。
暗い世に明かりを燈すように、密かなる祈りを込めて仕事をしています。一鍼を打っています。
まぁ、その割には結構痛い時があるかもしれませんが(笑)
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畏れ無きを施す―これは禅にある語であり師の教えです。
治すのではない。畏れ無きを施す。この事の意味は深いです。
八郷で過ごした日々はとうに過ぎて、今わたしにどれだけそれができているだろうか。
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治せると嬉しい。そして喜んで貰いたい。その喜びが欲しくてこの仕事をしています。しかし因果なことに、治せたことよりも治し切れなかった治療こそを想います。
20年もやってて、未だに夜中に目覚めて自問自答する時があります。もっといい治療をするにはどうしたらいいだろうかと。20年も経てばそんな悩みとはもう無縁だろうと思っていましたが逆でした。経験を積み、腕も確実に上がっているというのに不思議です。「腕が上がれば難しい患者が来るようになる」とは聞いていましたがそういうことなのか。はたまた、工夫の余地が無限に広がったせいで諦めきれなくなった自分がいるのも感じています。
こんな日々にいつか終わりが来るのだろうか。
それは完成なのか、あるいは臨床家としての終わりを意味するのか―。
「畏れ無き」とは「治る」とか「治らない」とか、そういう2元論を超えた悟りの境地を意味します。
でも、わたしは治すことに四苦八苦し続けていくのでしょう。「ここまで」と限界を決めてしまうのが性に合わない。完成などすることなく、どうやったらより良く治せるかを悩み続け、ずっと工夫し続ける。
泥臭いですが私の一日一施はそんなところです。
気づけばもうすぐ師走です。
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